チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷 / 塩野七生  

チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷 / 塩野七生


ニコロ・マキアヴェッリが書いた、
近代政治学の古典『君主論』のモデルになった、
チェーザレ・ボルジアの生涯を描いた本。


【本書より】

ただ彼は、血で手を汚すならば、
かえって身体全体をそれにひたしてしまう方を選ぶ男の一人だった。

歴史上、これほどに才能の質の違う天才が行き会い、
互いの才能を生かして協力する例は、なかなか見出せるものではない。
レオナルドは思考の巨人であり、チェーザレは行動の天才である。
レオナルドが、現実の彼岸を悠々と歩む型の人間であるのに反して、
チェーザレは、現実の河に馬を昂然と乗り入れる型の人間である。
ただこの二人には、その精神の根底において共通したものがあった。
自負心である。
彼らは、自己の感覚に合わないものは、
そして自己が必要としないものは絶対に受け入れない。
この自己を絶対視する精神は、完全な自由に通ずる。
宗教からも、倫理道徳からも、彼らは自由である。
ただ、窮極的にはニヒリズムに通ずるこの精神を、
その極限で維持し、しかも、積極的にそれを生きていくためには、
強烈な意志の力をもたねばならない。
二人にはそれがあった。

チェーザレのような男に、
一度与えた屈辱を忘れさせようとするのはひどくむずかしい。
父の法王アレッサンドロ六世は、許すという得を知っていたし、
時にはそれが有効であることも知っていた。
しかし、このヴァレンティーノ公爵は、
他のすべてのことでは有効性にもとづいて行動することは知っていたが、
屈辱を受けた時は別だった。
法王は、何でも言いたい放題に噂されても平気でいられた。
しかし、息子のチェーザレは、言葉だけではなく、
それを産む頭脳までも消してしまわねばいられない男だった。

しかし、イタリアの統一は、
チェーザレにとっては使命感からくる悲願ではない。
あくまでも彼にとっては、野望である。
チェーザレは、使命感などという、弱者にとっての武器、
というより寄りどころを必要としない男であった。
マキアヴェッリの理想は、チェーザレのこの野望と一致したのである。
人々のやたらと口にする使命感を、
人間の本性に向けられた鋭い現実的直視から信じなかったマキアヴェッリは、
使命感よりもいっそう信頼できるものとして、人間の野望を信じたのである。



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